功は日常にあり

~増田庸文の唯一無二の記事を日々お届けします~

増田庸文が元極を始めた当時の興味深い話の最終話です。                                                  _____________________ 

人の体の不調箇所が的確に判るようになってくるのと同時に、
その不調が自分に感じるのです。
痛い、苦しい、不快だ、気持ち悪い。
こんな症状が本人同様、自分にも襲ってくるのです。
 
人の為に、人の不調箇所が判り、対処して上げられる能力がつくことは素晴らしいのですが、
次から次へと襲ってくるその不快感には耐えられません。
 
どんどん鋭敏になってくるその能力は、そのうち道ですれ違う人の不調まで拾って、
こちらが不快になってくるようになりました。

「掛け金を下ろす」

そんなとき浮かんだのが、この言葉でした。
その小説「家族八景」を読んでからその時まで、既に二十年近く経っていたと思いますが、
何故かこの言葉が蘇ってきたのです。

 

人の悪い箇所を感じるセンサーの扉を閉めて「掛け金を下ろす」ことを練習したのです。

やって行くうちに、うまくできるように為るではありませんか。
以来、体を観る依頼があったとき以外は、いつも「掛け金を下ろして」います。

 

そして、私が教えているスタッフたちには、「観ること」や「功法」の安売りはするな。
と、いつも言っています。
なぜなら、安いとこちらの苦労が伝わらない。
相手が自分の病気を、自分で治そうとしない。
功法の価値が相手に判らない。
・・・・からです。

 

数百万円、数千万円掛けても、現代最新科学や医療でできないことを実現するにも関わらず、
「500円」で、して貰おうとする人が後を絶ちません。
 
「掛け金を下ろす」ことは、
我々が観る人から貰ってしまう悪いモノから為る「自分の肉体の不調」や、
相手との認識のギャップから起こる、「人助けを継続する気持ちが萎えそうになる」のを、
ガードする唯一の方法なのです。
 

<2013年1月2日「掛け金を下ろす3」>

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自分以外の人が、陰で費やしたものや努力をしたことは、目には見えにくいため、安易にとらえてしまいがちです。

しかし、日之本元極は、800年以上という途方もない月日を引き継いできた伝統的な気功法です。その間、黄金で道を買い、艱難辛苦(かんなんしんく)に耐える方々がおられたことで受け継がれ、刷新されてきたことをご想像ください。

そして、増田庸文も長年、そのようなご苦労に耐え忍びながら、初心を守り通しております。

その継続がなければ、現代最新科学や医療ではなす術がない状況になったとき、助かりたくとも助かる手段が、この世には何一つ存在していなかったことでしょう。