張志祥先生のお父様にまつわる、貴重な秘話の後半をご紹介します。
前回は、張家の掌門人をめぐる謎についてのお話でした。張先生のお父様は、息子ではなく妻に衣鉢を渡し、姿を消してしまわれたのです。今回いよいよその理由が明かされます。

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2012年5月17日、2012年5月18日
[以下の掲載内容は、張志祥先生の了解を取って掲載をするものです。]

この話を読んで、張先生に以下のように、伺いました。
重慶に行くことを、遺言で勧めたのは、胡文甫(こぶんほ)師ではありませんか?
また、重慶に10ヶ月行って学んできたとは、誰に学んだのですか?
(お父さんと類推しつつ、わざと聞いてみました。)
その通り、大伯父の胡文甫(張志祥先生の母方の修練者)に言われました。
重慶の師とは、私の父親です。私の父親が、隠れて生活をしておりました。
しかし、このことは今までなんら公表はしておりません。
ここで、はじめてお話しできることです。
母親以外の者は知らないことです。
父は、正当な張家の伝承者として位置しておりながらも、その「沽券(こけん)」を捨てて、
自らの方途を自己で選ぶ道を選択しました。
歴史から受け継いだことではなくて、自らが体得したことをきわめて緻密に考えて、
それを開拓していく精神を持った人です。
伝承することを辞めたとき、父親は遙かかなた、重慶に居を構えて、隠遁生活を送ったわけです。
大伯父に言われるまで、父親に学ぶことはないものと思っていましたが、
極めて類を見ない貴重な体得をしておられたので、それまでの多くの師達に加えて学ぶことを許されたのです。
つじつまのあわないのは、承知なのですが、
父は張家の長子として生まれて、その道を捨てて、女房にその力を全て渡して隠遁生活をしました。
それは、元極功法が、四代目となるべき私によって花開く功法であるということが、
神によって事前に知らされていたからです。
父が、別の方法で、さらに功法に厚みをますために、より研鑽して、
師として他の事柄を息子に知らせたかったため、ということをも、付け加えておきます。

張家二代目である張先生のお父様に、なぜ奥様に衣鉢を渡してしまわれたのか、お話を伺いました。
私が、どうしてそうしたのかというと、
道をはずれたといってもおかしくはないのですが、領域を広げたかったのです。
ひとりの孤独の身で、世界観が拡がるような修練をしたかったという思いからです。
しかし、「功は日常にあり」といわれるように、社会生活の中で耐えて、
日々、耐えて生きることが出来なかった訳ですから、
どんな理由があったにせよ脱落をしたと言われても仕方がないことです。
(張志祥先生は、常々「出家をしたり、山に籠もるようなことはしてはいけない。」と、仰っていました。)
自分の領域を広げたい思いがあったにせよ、大きな働きはしていません。
また、別な機会、張家にその力を授けた普善禅師が、
「わしは、自分の弟子(張志祥先生の祖父)の『死に水』を取ってやったのだが、
わし自身の『死に水』は、その孫である志祥が取ってくれたのじゃ。」
とおっしゃっていたのも印象深いことでした。(完)